藤田観光 持続可能な社会への想いと挑戦

社会的事業を実現するために生まれた藤田観光

初代社長 小川栄一の思想

藤田観光の起源は、1869年に実業家 藤田傳三郎が大阪で興した「藤田財閥」に遡る。以降同社は鉱山業、土木建築業、紡績・化学工業など先駆的事業を手掛け、大手財閥と肩を並べるほどに成長を遂げた。それから時を経て藤田家の邸宅や庭園などの財産を譲り受け、それを生かして日本の観光業の礎を築いたのが藤田観光 初代社長の小川栄一である。

戦後、藤田家の長男 藤田平太郎が1918年に建てた純日本風家屋の別荘(現:蕎麦 貴賓館)を譲りうけた小川は、華族、財閥が独占していた様々な庭園や邸宅を大衆に開放することが観光事業であり、経営者がなすべき社会事業であるとの信念のもと、根強くあった周囲の反対を物ともせず、この別荘を箱根小涌園として1948年に開業する。

小川の思想は、1938年世界旅行から戻った際に安田財閥の全役員を前に行った演説からも伺いしることができる。「われわれは、55歳の定年になればいやでも2万円の退職金でこの財閥を去らねばなりません。しかるに財閥は天下の秀才を集め、しかも『確実にして有利』『有利にして確実』な投資を求めて無限の富を築こうとしている。この結果、わずかな有限の富しか築けない大衆と無限の富を築いてゆく財閥との間にはおのずから大きなギャップが生まれてくるのではないでしょうか。それはやがて無限を志す財閥の富を根こそぎ持ち去ってしまうかもしれません。そこで財閥はみずから富を有限とし、限度を超えた富に対しては、やがての成長産業のために投資する、従来財閥としてやらなかった投資、あるいは慈善事業など、社会、公共ともに生かすことを考えていかねばなりません。」

(写真 上:開業当時の椿山荘 庭園/左下:初代社長 小川栄一/右下:開業当時の太閤園)

箱根を一大温泉リゾートへ変貌させた最初の挑戦

温泉が出ないと言われた地に鳴り響いた歓喜の轟音 箱根小涌園誕生秘話

箱根小涌園開業当時、敷地内には温泉は発見されていなかった。それどころか多くの専門家は「この地は堀削しても温泉は出ない」と断言していた。しかし、小川は再度箱根周辺の地質調査を実施させ、その結果、露出している地層から不透水層が発見されたのだ。「断固、掘るべし!」小川の命のもと掘削工事が開始された。

そして1949年 肌寒い11月、運命の時は来た。日も沈んだ夜8時、掘削深度が75Mに達した時、箱根周辺には轟音が響かせながら蒸気が土砂とともに吹き上げた。夜を徹して従業員一同は喜びを分かち合ったという。

(写真 左:蕎麦 貴賓館/右:開業当時の箱根小涌園(現在の蕎麦 貴賓館))

明治から受け継がれた庭園を復興しレストランへ

由緒正しき「庭園レストラン」 椿山荘

南北朝時代から椿が自生する景勝の地で「つばきやま」と呼ばれていたこの地を、明治1877年、山縣有朋公が購入した。自然を生かした庭園と本邸を建築し、「つばきやま」の名にちなみ椿山荘(ちんざんそう)と名づけ、今では、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵と合わせて山縣三名園と呼ばれている。

1918年、庭園をありのままに保存したいという山縣公の意思を受け継ぎ譲り受けた藤田男爵は、三重塔をはじめ文化財の数々を随所に配してその風情を一段と高めるにいたった。しかし、1945年の戦火によりそのほとんどが焼失し、三重塔、白玉稲荷神社、倉1棟が残っただけだった。

戦後の荒廃のなかで逸早く復興に着手したのは、藤田家から椿山荘を譲り受けた小川栄一であった。終戦からわずか3年後の1948年5ヵ年計画で復興に着手。「東京に緑のオアシスを」の思想のもと、椿山荘に戦前の面影を取り戻した。小川は戦前の姿を取り戻した椿山荘を庭園レストランにすることを決め、格式の高い本館を建築。この時、1Fにはバーやレストラン、ダンスフロアのほかに結婚式場も設けられ宴会場・結婚式場としても本格的に営業を開始した。明治時代より山縣有朋公、藤田平太郎男爵、藤田観光と3代に渡って幾多の困難を乗り越え慈み育まれてきた椿山荘。ホテル椿山荘東京となった今も、その自然を愛する心は脈々と受け継がれている。

(写真 上:ホテル椿山荘東京/左右下:開業当時の椿山荘 庭園と庭園レストラン)

ビジネスホテルへの事業拡大とその発展

都市が求めた「ビジネスホテル」のパイオニア

1964年に外国人観光客をターゲットとしたシティホテルの開業に携わった小川は、意外にも一人で宿泊する日本人ビジネスマンの利用が多いことに目をつけ、「サラリーマン向けのホテルを建設すべきだ」と考えた。

ホテルのコンセプトは「夕食時にビールの一杯飲めて、帰りに子供にちょっとした土産が買える。それが出張旅費の範囲内でできる」というもの。コスト削減に努め、客室の面積は9~11㎡に抑え部屋数を増やし、当時珍しかったユニットバスをさらにコンパクトに改良して導入するなどの工夫をしながら、全国にワシントンホテルを開業していく。従来の「出張は上司と旅館に相部屋」という概念を変え、「ビジネスホテル」という新たなホテル分野の基盤を作っていったのだ。

その後も1983年に開業した新宿ワシントンホテルに世界初の自動フロントシステムを導入するなど、ワシントンホテルは時代に合わせて新たな仕組みや技術の導入を進めている。

(写真 上:開業当時の札幌第1ワシントンホテル/左下:東京ベイ有明ワシントンホテル 客室/右下:開業当時の新宿ワシントンホテル 自動フロントシステム)

外資系ラグジュアリーホテルの立ち上げ

黒船 フォーシーズンズホテルと生み出す新たな波

1980年代、日本の老舗ホテルが地位を確立する中で外資系の進出も始まり、シティホテルの競争が激化していた。藤田観光も激戦区東京にホテルをオープンするにあたり、既存のホテル以上の超高級ホテルを望んでおり、ちょうどその頃日本進出を計画していたフォーシーズンズ・ホテルズ&リゾーツ社と提携交渉を行い正式に提携契約が交わされた。

日米のホテル文化に対する考え方の違いに戸惑いながらも、互いの長所を取り入れ短所を補い、粘り強い交渉が行われた結果、1992年、世界のどのホテルと比較しても類をみないほどの美しいホテル「フォーシーズンズホテル椿山荘 東京」が誕生した。

都内有数の庭園内に立地し他のホテルには真似のできない環境にめぐまれている一方、空港やターミナル駅から距離がある立地。この点を補うためにフィットネス&本格的なエステティックサロンの設置とあわせてレストランの充実が図られた。和食は椿山荘の「みゆき」、中華では副首相クラス以上の接待にも利用される「養源斎」。洋食は、「ホテルのメインダイニングはフランス料理」というのが常であったが、利用客の反応を見て「イタリア料理」が採用された。

(写真 上:フォーシーズンズホテル椿山荘 東京 客室/左右下:フォーシーズンズホテル椿山荘 東京外観)

国内外へ発展を遂げる藤田観光、そして未来へ

その先の未来へ

2006年に観光立国推進基本法が成立して以降、ビザ要件の緩和を始めとする様々な政策が遂行され、日本の観光産業を取り巻く環境は近年大きく変革している。インバウンドだけではなく、国内旅行においても団体旅行から個人旅行へと旅のスタイルは多様化。また、事業会社も国内外資問わず様々な業界からの参入が進んでいる。

そのような環境の中、藤田観光は、ホテル業でなく「観光業」こそを本業としている強みを生かし、観光立国のリーディングカンパニーを目指す。それは、創業時から受け継がれる、人々・その先にある社会への貢献。多様化するニーズへの対応・日々進歩する技術導入への飽くなき挑戦。皆さまの「ありがとうのいちばん近くに」いられる存在であり続けるために、国内外を問わず、さらなる発展、さらなる貢献を続けていく。

(写真 上:箱根小涌園 天悠(てんゆう)/左下:ホテルグレイスリー新宿/右下:HOTEL TAVINOS 浜松町 ロビー)